今日も投資の勉強していきましょう
さて、今回は大富豪たちに学ぶ蓄財術の2回目。
貧乏暮らしから身を起こし、独自の蓄財術と株の投資法で秩父の山林王にまでのし上がった本多静六(ほんだせいろく)の登場です。
蓄財・投資術もそうですが、波乱万丈の人生も読みどころ。
前回紹介した安田善次郎とも死の間際に接点があったようです。
では、ゆるゆると本編をお読みください!
★本多静六については僕が何度も受講している無料投資セミナーで紹介されていて興味を持ちました。投資初心者におすすめですので、こちらもぜひ視聴してみてください(画像クリックで公式ページに飛びます)。
目次
貧乏暮らしから山林王に
本多静六は幕末から昭和を生き抜いた山林学者、造園家でした。
こんな人(Wikiより)
1866年(慶応2年)生まれ。11歳で父を亡くし、子供のころから農家の手伝いや米搗きなどをしたようです。そしてかなり苦学して東京山林学校に入学しました。
この学校は1886年に駒場農学校と合併して東京農林学校と改称され、後に東京帝国大学(現東京大学)農学部となります(くわしくは「東大農学部の歴史」参照)
静六はなんと、この学校を首席で卒業。その後私費でドイツに留学して財政経済学を学び、帰国後は母校の助教授となりました。
ここで教鞭を執るかたわら、造園家として明治以降のさまざまな公園や庭園などの設計にも携わっています。
有名なところでは東京の日比谷公園や明治神宮、大沼公園(北海道)、鶴ヶ城公園(福島)、羊山公園(埼玉)、明治神宮(東京)、卯辰山公園(石川)、奈良公園(奈良)、大濠公園(福岡)などなど。どれも今は有名な観光地や憩いの場となってますね。
静六は東京駅丸の内口駅前広場やその前を通る行幸通りも担当しました。2019年にだいぶ様変わりしちゃいましたけど、基本のところは本多静六先生の設計だそうです。
1956年撮影の東京駅と行幸通り(GO TOKYOサイトより)
月給4分の1天引き法
本多静六は勉強にも仕事にもかなり熱心な努力家だったようですが、蓄財にも人一倍熱心でした。
彼の蓄財法や投資手法の話が、静六が83歳のときに著した『私の財産告白』(1950年、実業之日本社刊)に載っています。
現在、Amazon会員の方はKindle Unlimitedで無料で読めます(画像をクリックすると当該ページに飛びます)。
この本から蓄財・投資に関する部分を抜き出してみましょう。
まずはこれ。
貧乏を征服するには 、まず貧乏をこちらから進んでやっつけなければならぬと考えた 。貧乏に強いられてやむを得ず生活をつめるのではなく、自発的 、積極的に勤倹貯蓄をつとめて 、逆に貧乏を圧倒するのでなければならぬと考えた 。
本多静六『私の財産告白』より
貯蓄の目的は貧乏の征服。根底にはやはり貧乏生活があり、それを克服しなければならないと考えたようです。
本多はここで貯蓄に関する重大な決意をします。
そこで断然決意して実行に移したのが、本多式「四分の一天引き貯金法」である。苦しい苦しいで普通の生活をつづけて 、それでもいくらか残ったら … …と望みをかけていては 、金輪際余裕の出てこようはずはない 。貧乏脱出にそんな手温いことではとうてい駄目である 。いくらでもいい 、収入があったとき 、容赦なくまずその四分の一を天引きにして貯金してしまう 。そうして 、その余の四分の三で 、いっそう苦しい生活を覚悟の上で押し通すことである 。
余ったら貯金しようではダメ。最初から貯金に4分の1を回し、残ったお金で生活する。
「これにはもちろん 、大いなる決心と勇気が必要である 。しかも 、それをあえて私は実行した」と静六は述べています。
実際、本多家の生活はかなりカツカツだったようです。
ドイツ留学後に母校の助教授に就任したものの、それを頼って急に寄宿してきた親類が増え、9人もの人を養っていたそうな。
貯蓄に4分の1を回した結果、本当にお金がなくなり、ごまを振りかけただけのご飯で過ごした日もあったと書かれています。静六の貯蓄に対する並々ならぬ決意がうかがえますね。
40歳で貯金利息が本給と同額に
ドイツ留学から帰国後、農林大学に奉職した静六は、ここで生涯の生き方、人生計画を立てます。
「四十までは勤倹貯蓄 、生活安定の基礎を築き 、六十までは専心究学 、七十まではお礼奉公 、七十からは山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の楽居 」と定め 、かつ毎日一頁以上の文章執筆と 、月給四分の一天引き貯金の二つの行を始めた 。
こうした勤倹貯蓄は、ドイツ時代の恩師から学んだものだと静六は述懐しています。さらに本職以外のアルバイトもいろいろ引き受け、貯蓄を増やしていきました。
そうした苦心の末、40歳のころには「貯金の利息が本職の給料以上となるまでにふくらんだ」そうです。ふくらみ方がハンパない!
とにかく、金というものは雪達磨(だるま)のようなもので、初めはホンの小さな玉でも、その中心になる玉ができると、あとは面白いように大きくなってくる。少なくとも、四分の一天引き貯金で始めた私の場合はそうであった。これはおそらくだれがやっても同じことであろう。
なんかどっかで聞いたことがあるなあと思ったら、ずっと後になって投資の神様ウォーレン・バフェットが同じようなことを言ってます。パクったのか?w
バフェットさんの「スノーボール(雪だるま)理論」の話はこちら↓↓↓
ためたお金は株と山林へ投資
こうして貯めたお金を静六は山林購入と株式投資にあてました。
山林はもともと育英会の奨学金に充てる費用を捻出するために投資したもので、戦後の復興建築の際、木材が暴騰して高値で売れたそうです。
株についても静六独自の投資法を編み出して成功したようです。
その名も「二割利食い、十割益半分手放し」投資術。
「思いがけぬ値上がりがあった場合は、買値の二割益というところでキッパリ利食い転売」し、「それ以上は決して欲を出さない」というのが2割利食い。
また長期で持ち続けて2倍(十割益)以上になったら、手持ちの半分を売って元金を確保し、残った株は暴落してもいいという気持ちで持ち続ける。これが「十割益半分手放し」。
静六はリスク分散もやっていました。鉄道、ガス、電気、ビール、紡績、セメント、鉱業、銀行など30種以上の業種にわたり「優良株を選んで危険の分散に心掛けた」と語っています。
もっとも、静六がやったのはリスク分散だけではありません。暴落時に買い向かうというリスクも冒していました。
著書でも、株で一番もうかったのは大暴落の時だと白状しています。
関東大震災直後、東京電燈(東京電力の前身)の株が暴落していったのを見て、本多はすぐに元に戻ると確信し、どんどん買い増していったそうです。で、予想通り上がってきたら元手分を換金。残った分は損してもいいという気持ちで持ち続けたとか。
大変動ばかり心配していては、何事にも手も足も出せない。したがって、投資戦に必ず勝利を収めようと思う人は、何時も、静かに景気の循環を洞察して、好景気時代には勤倹貯蓄を、不景気時代には思い切った投資を、時機を逸せず巧みに繰り返すよう私はおすすめする。
おもしろいことに、これもバフェットさんの投資術と考え方が似ています。バフェットさんも「暴落は大好物」。狙っていた株が暴落したときを狙って買い向かい、後に巨万の富を作っていきます。
本多にはバフェットさんに通じる天性の投資の才能があったんでしょうね。
資産ありすぎてあわや教授をクビに?
思い通りの資産をため、そのお金で「万巻の書を読み 、万里の道を往く」という宿願を実行した静六。
「洋行十九回 、足跡を六大洲に印し 、三百七十冊余の著書を公けにした」と本書で語っています。いまと全然為替相場が違う超超円安な昭和初期の日本で、そんなに海外に行けたのはすごいことです。
結果だけ聞くとすごく順風満帆に見えますが、その人生はけっこう波乱に富んだものでした。
11歳で父が死に、子供のころから大学まで極端な窮乏生活を送りながらの苦学。
そして、東京山林学校に入学後、第一期試験に落第し、「悲観して古井戸に投身した」こともあったそうです。
ふるいどや~ほんだとびこむ水のおと~
でも結局死に切れず。そこで思い直して「決死的勉強の末 、二学期引きつづき最優等で銀時計を賞与された」のだそう。
人間死ぬ気になればなんでもできるってことですかね。
本多はこれにより、「落第するほど愚鈍な生まれつきでも 、努力次第で何事にも成功するという自信を得た」そうです。
もうひとつ面白かったエピソードが、学士会館(千代田区)を帝大教授らの寄付を持ち寄って建設しようとなったときの話。
50円、100円のお金を出すのにも苦労している同僚をはために、本多は1,000円をポンと寄付したんだそうです。
学士会館ができたのが大正2年(1913年)。大正初期の1円は現在の1,000倍ほど価値があったそうなので、1,000円といえば今のお金でざっと100万円分くらいでしょうか。
その「ポンと100万円」がどういうハレーションを引き起こしたかというと、、、
「大学教授のくせに、本多の奴は、きっと何かの相場でもやっているにちがいない、けしからん、学者の風上にもおけない」と、農科大学内に大変な物議をかもしてしまった。
そして、部内一致で辞職を求められる事態に陥ったのだそう。
そりゃ、天下の帝大教授とはいえ、その金額をポンと出したら、同僚はだれでも驚きますよね。
しかし、本多は疑う同僚を家に呼び、これまでの過去の家計簿を全部見せ、「勤倹4分の1貯蓄」に励んだ事実を説明し、決して不浄な金ではないことを認めさせたそうです。
渋沢栄一が認めた商才「学者にしておくのが惜しい」
NHK大河「青天を衝(つ)け」の主役、次期1万円札の顔にして、開国期の日本経済の発展に大きな足跡を残した実業家、渋沢栄一翁は、本多静六と半世紀にわたる親交があったそうです。
渋沢栄一、ほんとはこんな顔↓
本多が埼玉出身の苦学生のための寮を東京に建てたいと願い、同郷の先輩である渋沢に寄付を請うたのが交流のきっかとか。
以来渋沢は本多が海外から帰るたびに食事会を催し、さまざまな国の話を聞いたそうで、広い見識を持つ本多の意見を自分の事業にも取り入れていったようです。
幕末に徳川昭武(あきたけ=徳川慶喜の弟)に随行してパリにわたった経験のある渋沢だけに、常に外国の新しい動きに関心を払っていたのでしょう。
渋沢は本多について「事業に対する着眼と実行力のあり、学者にしておくにはまったく惜しい」と評し、実業界にくるよう誘っていたとか。
本多静六が渋沢とともに実業界に進出していたら、いったいどんな日本になったでしょうね。考えるだけでワクワクします。
暗殺直前の安田善次郎と会っていた!
山林と株投資で蓄財に成功した本多静六でしたが、1926年の東大退官の折には、必要最小限の財産を残し、残りをすべて学校や教育、公益財団に寄付してしまったそうです。
人生の早い時期に財産を手放した理由の1つに、実は前回紹介した安田善次郎がかかわっていたことが著書に書かれていました。
ひと財産築いて50代となった静六が、ある日こんなことを考えます。
「財産のこしらえ方も難しいが、財産の上手な使い方はさらに難しい」と。
そこで、勤倹貯蓄で巨万の富を築いた大先輩、安田善次郎を大磯の別邸に訪ね、その「財産処分法」を聞きにいったそうです。
齢80歳を越えていましたが、善次郎はまだまだ金儲けを続けていました。世間では「守銭奴」と呼ばれていたそうです。そんな呼び名に疑問を呈しながら、静六にこう語りました。
「金を殖(ふ)やすだけ殖やして減らさぬのを世間はやっかむのかも知れぬが、実は自分は、少しでも殖やし、少しでも多くし、それをできるだけ効果的に使おうと苦心しているのであって、いまにして金儲けがやめられぬのも、その志が大きいからである。一生を懸けて真剣に貯めてきた金だから、最後の思い出に、真剣に使いたい。何か最も有意義に使いたい」
その案などをいろいろ聞いて、「かつは驚き、かつは喜び、お互いに手を取り合って感激の涙の中に別れたのである」と静六は記しています。
長い年月、苦労して勤倹貯蓄に励んできた2人だけが理解し合える瞬間だったのかもしれません。
それが大正10年9月18日のこと。
なんとこのわずか10日後、善次郎はこの同じ大磯の別邸で、訪ねてきた右翼の若者に「奸富(かんぷ)」とののしられて刺し殺されたのでした。
そのあたりは前回記事参照のこと。
静六は事件を知ってショックを受け、この暴挙を憎みました。
そして、「一代の商傑には一代の商傑でしかたくらみ得ない大きな野望があるのに、どうして世間というものはこれを静かに見守って、心行くまで、その夢を実現させてやれないのだ」と大いに嘆いたそうです。
ともかく、この事件が心にあって、静六は大学退職を機にとっとと財産を処分してしまおうと決めたようです。
さて、我々は毎月いくら投資(貯蓄)に回したらいいのか。
安田善次郎の2割(20%)に対し、本多静六は4分の1(25%)貯蓄を実践していました。
それぞれの割合はともかく、ご両人とも決めたことをなんとしても最後までやり抜く気概に満ちていました。そして、貯蓄をもとに「雪だるま」の芯をつくり、それを(投資などで)転がしていくことが大切、という共通の考えも示していました。
ふたりとも貯めすぎた財産の使い道に悩んでいた、というのもなんだか不思議な話です。
定年退職を機に早めに財産を寄付してしまった静六。この『私の財産告白』を著した2年後の1952年(昭和27年)、85歳の天寿を静かにまっとうしました。暗殺されることなく、、、。
全国津々浦々に立派な公園広場の足跡、370冊以上の著作を残し、好きな書を読み好きな旅をして逝った、あっぱれな人生だったんじゃないでしょうか。
あっぱれ!
さてさて、「大富豪たちに学ぶ蓄財術」の2回目、本多静六を紹介しましたがいかがだったでしょうか。
前回の安田善次郎とあわせ、蓄財法や人生訓、生き様が読者のみなさまの参考になれば幸いです。
「大富豪の蓄財法」はまたネタを見つけたら書いていきます!
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